道徳教育論 -理論と実践-(3)

                       横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊

2、道徳と道徳性について

 人間は、食欲や性欲といった有性動物一般に見られる生物的欲求(本能的欲求)にしたがった行動を、自らの力で抑制する能力をもっている。

その力は、理性や知性と呼ばれる能力である。

人の行為の善悪を識別する能力である理性と、本能的欲求のままに行動することなく、課題を学習によって解決する能力である知性を活用しながら、人間は集団による社会的生活を営むことから「理性的動物」とか「社会的動物」といわれている。

人間は、理性や知性の働きにより自と他を分けて認知し、自分という概念を持ち、意識を以て行動をする。

人間が意識的に行為を行う場合、その行為は理性における「善悪」の判断と、続いて意志の決定プロセスを経て、行為がなされている。

例えば、人間が食事をする際には、犬のような食べかたはしない。

箸やフォークといった道具を用い、食事マナーに則って食事がなされる。

手づかみで食べたり、犬食いと呼ばれる直接的な食べ方はしない。

食事マナー、食事作法といった食事における社会規範が存在し、人間はその規範に即して善悪の判断を行い、意思の決定に基づいた行為がなされる。

理性や知性は、学習という方法によって身に付けられているのであるが、こうした行儀作法、マナーといった行動規範を身に付ける学習も道徳教育の一部分でもある。

また、人間には他のほ乳動物には見られない、生理的あるいは動物的な欲求には見られない「欲求」も存在する。

仏教では、人間の持つそうした欲求を煩悩と呼ぶ。

人間は理性や知性の働きにより、自と他を分けて認知し、自分という概念をもつのだが、同時に自分という概念に付随した「エゴイズム」をもつこととなる。

エゴイズムとは、一般的に利己主義、主我主義、自己中心主義などと呼ばれる。

煩悩もエゴイズムである。

「求めても求めても、際限というものがない欲求」が、煩悩である。

物欲、金銭欲、地位欲、名誉欲、権力欲、色欲等々、仏教では百八の欲求としている。

 人間のそうした多様な欲求である、「エゴイズム」は、自分という、自と他を区別する認知の上に生じるのである。それは人間が理性や知性をもつことから生まれたことでもある。

人間社会で起こる数多くの犯罪の根底には、多く場合エゴイズムが起因している。

お金や権力、男女関係等々の金銭欲、権力欲、色欲といった、人間の「エゴイズム」が起因しているのである。

仏教では、エゴイズム、煩悩というものを消滅させた境地を理想とし、一切の欲望、執着から解放された境地を、「悟り」と呼んでいる。

悟りに至った人を、「仏」と呼ぶのである。

仏教の本質は、「悟り」の境地を得て仏となることを決心(発菩提心)して、悟りを目指して修行の道(求道)を歩むための教えである。

悟りに近い境地に至った者を覚者あるいは、羅漢、聖人と呼ぶのである。

日本人は古来から仏教に親しんでいたことから、多くの人々は「煩悩」つまり「エゴイズム」を「悪」であると考えている。

「エゴイズム」「利己主義」の対極である、「善」にあたる概念が「利他主義」と呼ばれるものである。

人は日常の生活の中において、エゴイズム、利己的な思いに捕らわれた行為は悪であり、利他的な思いからの行為が善であるという認識をしながらも、どちらの行為を選択するかで、葛藤を伴いながら、最終的にどちらかに決心し(意思を決定し)行為が行われる。

道徳は、人間はより善く生きようとする存在である、という性善説に立って成立しているが、同時に人間は弱さや強さ、醜さや気高さを重ね持った存在、言い換えると人は、常に迷える存在であるという人間観に立っている。

人は時として、悪と判断する行為であっても、エゴイズムや煩悩にとらわれ、あえて悪い行為を自己決定(意思決定)し、行為におよぶのである。

「わかっちゃいるけど、やめられない」この言葉が簡潔に、そのことを表現している。

理性が知性が、煩悩、エゴイズムの強さに負けるのである。

それが、人間の弱さであり、醜さである。

そうした時、人は往々に、やってしまった悪い行為を反省し、悔やみ、時に罪悪感に苦しむのである。しかし、そうした心が「良心」である。

人は「良心」の働きにより、より良く生きようとするのである。

それが、人間の強さであり、気高さである。

 人は失敗体験、挫折体験を伴いながら、心と精神、人格を成長させていくのである。

そうした個人の総体として、人間の集団や社会、国家を捉える時、個人の成長の延長線上に、社会や国家の成長や発展があると考えられるのである。

道徳における、ひとつの分野である「人権」について、歴史を振り返り眺めてみる時、個人の人権意識と社会制度とは、共に相関しながら歴史を歩んでいる。

奴隷制や身分差別等の歴史もまた、人権意識の向上と社会制度の発展は、共に相関しながら発展していることが見えてくるのである。

個人個人の人権意識の成長に伴い、社会制度の発展があるという姿は、人種差別や男女差別等の人権問題を、少しずつ克服してきた人類の歴史の中に見いだすのである。

規範や規準、善悪の判断の変化、そうした人格の成長の姿はまた、人間の道徳性の発達、社会道徳の向上として、歴史の中に見いだすのである。

人は生まれながらに基本的人権を有し、子どもであっても大人と同様に、人種の違いや性別の違い、障害の有無に関わらず、人として幸せに生きる権利をもっている。

こうした基本的人権の保障が、社会制度の中の法律として社会や国家の発展の程度を測る基準として見ることができるが、それと共に「道徳」という、個人の内面的な規範や規準が人々の意識の中にしっかりと確立された社会が創造されなければならない。

まだまだ、現状の世界の国々を眺めるとき、国民の基本的人権が保障され、法の下の平等と正義が確立している国ばかりではない。

 幸いなことに、日本という国は、基本的人権が保障され、道徳の高い国でもある。

道徳の高さがもたらす恩恵が、日本人だけに享受されるのではなく、世界人類の道徳の向上幸せに寄与できるものでありたい。


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