道徳教育論-理論と実践-(7)
横浜市立大学非常勤講師 鈴木豊
6.道徳性の発達について
学校教育における道徳教育の目標は、児童生徒の「道徳性の育成」である。
「道徳性」というものが、人間が生まれてからどのようにして発達していくのか、そうした人間の道徳性の発達に関する研究が、「道徳性の発達に関する理論」である。
具体的にどのような理論があるのか、代表的な道徳性の発達理論について概観していきたい。
まず道徳性というものは、人間だけに見られるものなのか。その点から考察する。
道徳性というものが人間の進化の過程で形成されていったと考えると、道徳性は人間だけにみられるものではなく、高等動物であれば形成されうるものとなる。
そこで人間の進化の歩みを振り返ると、脊椎動物は魚類から両生類、は虫類へと進化し、は虫類から二つに分岐し、さらに高等動物である鳥類とほ乳類の二つの道に進化してきたとされている。
鳥類とほ乳類は、脊椎動物の中で最も進化した動物であるといえる。
そこで、そのふたつの動物について道徳的行動という点に注目してみると鳥類、ほ乳類には、他の脊椎動物には見られない行動として、「子育て」が認められる。
魚類、両生類、は虫類では、「子育て」は見られない。卵は産みっぱなしである。
生まれた子どもを育てるという行為は、鳥類とほ乳類だけに見られる行動なのである。
「子育て」という行動は、進化の歩みの中で獲得した行動であるといえる。
「子育て」には、道徳的行動としてとらえられている行為が含まれている。
例えば、子育ての期間に子どもが外敵などに襲われたり危険が生じると、親が子どもを守ろうとする行動は、ほ乳類だけではなく鳥類にも見られる特性である。
高い道徳的価値とされる「自己犠牲という行為」は、本能的な行為に起因していることがわかる。
また、猿の子育ての中で確認された行動として、母親猿が死んでいる我が子の死体を、死後数週間にわたり決して離さず、母猿がだき抱えながら行動する事例が認められている。
母性愛は「無私の愛」と呼ばれ、道徳的価値の高い愛他的行為であるが、本能的行為に起因することが考えられる。
他にも高等動物が集団を形成し、集団生活を維持するために社会的・組織的な行動が認められる。
縄張りを作り、群れを形成し集団の中で、外敵を見張る役割の動物が認められたり、子どもを守るために、群れの中心に子どもを集める等、集団がボスを頂点とした社会化・組織化された群れなどが観察されている。
特に、猿の観察研究を通した集団中における秩序やルール、社会的・組織的な行動が群れで認められている。
日本における猿学研究は、人間という動物を考える上で示唆に富む領域である。
人間は進化の過程で、こうした群れの生活の中から「他者へのいたわり」や「思いやり」といった道徳的行為が成立したのではないか、とする動物学的研究もある。
またゴリラやチンパンジー等の子どもの遊びが、社会化した群れへ入るための「学習」としての「働き」があることが、認められている。
つまり、学習という知性や理性を高めるための行為も、人間だけに認められるものではないと考えられる。
人類は、進化の進んだ猿の仲間から、数万年前に別の進化を歩みだした。
進化論的に、勢力の強い優秀な猿の群れが人類の祖先ではなく、勢力の弱い猿のグループが人類の祖先であったと説明されている。
森から草原へと人類の祖先は生活環境を転換したわけであるが、人類の祖先は森から草原へ命をつなぐため、未知の世界へ歩み出したのである。
その結果、人類は「食物連鎖」という生物の大法則から、唯一抜け出した動物となった。
人類の数は今世紀末には100憶人に達するのではないかと懸念されている。
理性や知性といった人間の特性は科学を発達させ高度な文明や豊かな文化を創り出したが、反面それらの特性ゆえに、嘘をつき、人殺しを行い、戦争という他の動物には見られない大量殺人を行う動物ともなったのである。
この点が「人類に道徳が必要」とされる原点である。
この考え方は梅原猛の著書「梅原猛の授業 道徳」で述べられている。
人類の歩む未来は、人間の未来だけでなく、地球環境や多種多様な地球上の他の生物の生命をも左右するものとなったのである。
産業革命以来、人類が手にした科学技術の急速な発展は、核戦争の危険性をも生み出した。
エジソンは「21世紀は心の進化の時代」と述べている。
人類の未来に明るい希望をもたらすためには、道徳性の発達が必要なのである。
では、人間の道徳性を「どのようにとらえるのか」について見ていきたい。
道徳性の一端を、「人間の行為」という点からとらえようとする考え方がある。
「行為」を通して、道徳性を理解しようとするのである。
「行為」が何に基づいて行われたものか「動機」と、そして「行為」によってもたらされた「結果」、それらを検討することで、行為者の道徳性を理解しようとするものである。裁判は、まさにそれである。
しかしそうした場合に、「人間とは何か」ということについての理解が、前提として必要である。
人間理解といわれる、人間のもつ弱さや醜さと、気高さや強さである。
そういった相反する両面の姿をもった存在、それが人間である。
人間の本質に対する理解が、道徳性を考える上で必要である。
裁判における判決は、こうした人間理解を踏まえ、犯した罪・行為、その結果もたらされた結果と、その動機となった理由や背景を鑑み、判決が言い渡されるのである。
「人間の本質」について考える視点として、
一つ目の視点は、ひとりの人間、個人としての人間の在り方、オンリーワンとしての人間の在り方から「人間の本質」を考える視点である。
二つ目の視点は、人間の「間」という文字が表すように、人間の中間性、「間柄」において「人間の本質」を考える視点である。
人と人との間の間柄や、神様や仏様と畜生との間の間柄において「人間の本質」を考えるのである。(仏教における六道には天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の階層がある。)
三つ目の視点は、人と人が織りなす世界、すなわち社会との間柄において「人間の本質」を考える視点である。
この3つの視点は、次のようにも言い換えられる。
一つ目の視点は、個人つまり自分自身との関わりにおける人間の本質(生き方在り方)
二つ目の視点は、他の人との関わりにおける人間の本質(生き方在り方)
三つ目の視点は、社会や集団との関わりにおける人間の本質(生き方在り方)
である。
こうした考え方は、文科省の道徳教育に反映されている。
次に、文科省が「道徳性」をどのように捉えているのか、について見ていきたい。
文科省の「中学校学習指導要領解説」の第1節 道徳教育の目標には、
「道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、公共の精神を尊び、民主的な社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。」
と書かれている。
つまり、学校教育における道徳教育の目標は「道徳性を養うこと」である。
続いて「第3章 道徳」の「第1 目標」 前段には、
「道徳教育の目標は、第1章総則の第1の2に示すところにより、
学校の教育活動全体を通じて、道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする」と書かれている。
この文章の中において、道徳授業の指導案で押さえなければならない点として、
「授業のねらい」となる「道徳性の育成」に関して、「道徳性」の様相として、
「道徳的心情」と「道徳的判断力」、「道徳的実践意欲と態度」という3様相からなる、と定義付けている点にある。
この点から、道徳指導案・道徳授業での「ねらい」は、上記で述べた道徳性の3様相を養う観点から「ねらい」を設定することとなる。
つまり、道徳授業の「ねらい」の文末表現は、
下のいずれかとなる。
「 ~ を通して道徳的心情を育てる(育成する)。」
「 ~ を通して道徳的判断力を育てる。」
「 ~ を通して道徳的実践意欲(態度)を育てる。」
以上の3通りである。
「道徳性とは何か」という点を、更に整理する。
道徳性というものは、人間性の中に包含される人格の一部である。
人間性とは、「人間の本性」という意味をもち、「人間らしさ」ともいわれる。
人間ならば誰もが備えている性質や能力、欲求というようなものも含まれている。
人間性に包含されるひとつの領域、それが道徳性と考えられるのである。
すなわち道徳性とは、人格の中で道徳的に関与している側面であり、道徳的な行動を可能ならしめる人格の傾向性であるといえる。(「道徳の授業理論」押谷慶昭著)
人間性の中の、「善」の傾向性が「道徳性」であるともいえる。
文科省は、「道徳性」には「道徳的心情」と「道徳的判断力」そして「道徳的実践意欲と態度」という3様相がある、としている。
人間の道徳性というものを、科学という手法を用いて考える学問に「心理学」がある。
では、心理学における人間の「道徳性の発達」に関する研究を概観する。
一つ目として、「精神分析理論」がある。
「精神分析理論」は道徳性を主として「情緒的側面」から捉えようとする立場であり道徳性を人間の「良心」の働きと見ている。
この立場を代表する人がフロイトである。
特に幼児期における親の教育的行動様式である「ほめる・叱る」という教育行為は、その後の子どもの「道徳性の発達」に対して、大きな部分を規定する重要なものと考えられている。
二つ目に、「社会的学習理論」がある。
この立場では「道徳性の発達」は、社会的強化とモデリングによって操作的に変容するとし、「道徳的判断」は、年齢などによる発達的要因によって規定されるのではなく、
条件付けとモデリング(模倣)によって学習されるということを述べている。
この立場を代表する人が、バンデューラーである。
三つ目は、「認知発達理論」である。
この立場は、「道徳性の発達」を行為の面から見るのではなく、
「なぜ正しいと判断するのか」、「道徳判断という認知的側面」からとらえようとするものである。
この立場を代表する人はピアジェでありコールバーグである。(「道徳性心理学」日本道徳性心理学研究会編著)
ピアジェは4歳から14歳までの幼児・児童を対象にしたマーブル・ゲームという遊びを利用した臨床研究を行い、「遊びの発達段階」は4段階にわたって発達するとしている。
(マーブル・ゲームの規則)
マーブル・ゲームの方法はただ1種類でなく、多数の方法がある。
まず、「方形ゲーム」
地面に四角が描かれる。そして幾つかのマーブルがその中に置かれる。
ゲームはどうするのかというと、遠くからこれらのマーブルを打ち当てて、それをその囲いから追い出すのである。
また、「クーラト」というものがある。
これは二人の遊戯者が、不定回数で互いのマーブルをねらうのである。
また、「トロイヤ」というものもある。
これは「穴」あるいは「くぼみ」ということからきたもので、
穴の中にマーブルを積み重ね、重いマーブルをそこへ投げ入れる方法で、それを追い出すようにする遊びである。
「ピアジェの遊びの発達段階」
第1段階は、子どもは自分の欲望のままに遊ぶ段階であり、ゲームは勝つためにするのではなく一人で遊び楽しむ段階である。
「純粋に運動的・個人的な段階」で2~3歳の年齢の子どもに見られる遊びである。
第2段階は、与えられた例を自己流に利用するだけで遊ぶ段階「自己中心的段階」であり、4~5歳の年齢の子どもに見られる遊びである。
第3段階は、仲間に勝とうし、相互に抑制したり規則を統一しようとする問題に関心をもちはじめる段階、「初期強調の段階」7~8歳の遊びである。
第4段階は、規則を尊重することができ規則が精密に規定され仲間全体のものとなる「規則制定化の段階」、11~12歳の遊びであるとしている。
「規則の意識」は、次の3段階であるとしている。
第1段階は、子どもは規則を自動的あるいは無意識的に服従させられるためか、強制されたものとは思っていない。
規則の意味はまだ理解できない。
「純粋に個人的な段階」であり、前道徳的の段階は、規則に対して義務感のない段階である。
第2段階は、子どもは、規則は大人から与えられた神聖なものとして受け止めている。これを修正することは違反だと考える。
「自己中心的段階の頂点から協同段階の半ばの段階」。
他律的段階であり、正しさは規則にしゃくし定規に従うことであり、義務を力のある者への服従と同一視する段階である。(ほぼ4~8歳)
第3段階は、子どもは、規則は相互の同意に基づくものと考え、尊敬しなくてはならないと考えている。
しかし、みんなの同意を得れば修正可能であると考えるようになる。
「規則が相互の同意に基づく法律と考えられ、尊敬しなければならないが一般の同意を得れば修正することができる段階」としている。
自律的段階であり、規則に従う目的や結果が考慮され、義務が相互性と交換に基づく段階としている。(ほぼ8~12歳)
ピアジェは子どもにおけるゲームを分析することにより、子どもには2つの道徳、
すなわち「拘束の道徳(あるいは他律の道徳)」(その特質は、外部から個人の上に義務の内容を伴った規則の体系を課すること。)と「協同の道徳(あるいは自律の道徳)」(その特質は、人々の心の内にあらゆる規則の背後にある理想的規準の意識を創りだすこと。)があり、
道徳性は「他律的道徳(拘束の道徳)」即ち命令と服従の道徳であり、一方的尊敬、権威に対する服従という発達段階から、「自律的道徳(協同の道徳)」即ち子供同士の相互の関係から生まれる協同、相互的尊敬という発達段階の道徳へと進化することを明らかにした。【注:ピアジェ臨床児童心理学p7、p560 大伴茂訳】
ピアジェは「道徳性の発達」において、「他律的道徳」から「自律的道徳」へと進化する、ということを科学的に説明した点に大きな功績がある。
ピアジェが「道徳性の発達」を、どのような「科学的手法」を用いて行ったのか、という点を知るために、彼の行った科学的調査の幾つかを、具体例として紹介する。
「内在的正義」に関する調査【注:ピアジェ臨床児童心理学p353~p370】
[ 話1 ]
ある時二人の子供が林檎畑で林檎を盗んでいました。突然番人が現れたので、二人は脱走しました。一人はつかまりました。一人は曲りくねった道を通って家に帰る途中、川の上のこわれかかった橋を渡ろうとして、水の中に落ちました。そこであんたはどう思う?若しその子が林檎を盗まないで、そのこわれかかった橋を渡ったにしても、同じように水の中に落ちたでしょうか。
[ 話2 ]
小さい子の級で、先生が生徒に鉛筆を自分でけずることを禁じました。ところがある時先生が向うを向いていた時、一人の子がナイフで、鉛筆をけずろうとして指を傷つけました。若し先生が鉛筆をけずることを許しても、同じようにその子は指を切ったでしょうか。
年齢6歳 年齢7-8歳 年齢9-10歳 年齢11-12歳
86% 73% 54% 34%
内在的正義の存在を肯定する答、即ち、もしその子が盗んだり逆らったりしなかったならば、水の中に落ちたり指を切ったりしなかったであろうと答える答は上のようなパーセンテージを示した。
デップ(6年)話1
―この話をどう思う?
―いい気味だ、その子は盗んではいけなかったんだ、いい気味だ
―林檎を盗まなかっても、河に落ちただろうか?
―落ちない
ジャン(6年)話2
―その子は指を切った、なぜならナイフにさわることを禁じられていたんだから
―禁じられていなくても、やっぱり指を切った?
―ううん、なぜなら先生が許していたんだから
フラン(13年)話1
―林檎を盗まなくともやっぱり落ちた?
―落ちた、橋がいたんでるなら、修繕されずにあったのだからやっぱり折れただろう
第二の話【注:ピアジェ臨床児童心理学p380】
懲罰 平等 公正
年齢 6-9・・・・・・48% 35% 17%
年齢 10-12・・・・・・ 3% 55% 42%
年齢 13-14・・・・・・ 0% 5% 95%
「ある休日の午後、お母さんが子供たちをつれてローヌ河のほとりを散歩しました。四時になった時、お母さんは一人一人に小さなパンを与えました。みなはたべはじめましたが、一番小さい子供だけがぼんやりしていてそのパンを河の中に落しました。お母さんはどうしたらいいでしょうか。その子供にまた一つ与えたらいいでしょうか。そうすると大きい子供たちは何というでしょうか。
これに対する答は三種類に分けられる。即ち、再びパンをやってはいけない。(懲罰)。めいめいパンを持つべきだから、再びやらなければいけない(平等)、その子は幼少なのだから再びやらなければいけない(公正即ち、この場合には年齢の差であるが、各人の事情を考慮しての平等)。ランベール女史はその質問した百六十七名の子供について上の数字を得た。」
「平等と権威」に関する調査【注:ピアジェ臨床児童心理学p393~p398】
[ 話1 ]
ある時ボーイスカウトのキャンプに出かけました。めいめいが本分をつくして仕事をし、すべてを整頓よくしなければなりませんでした。あるものはお使にゆき、あるものは洗濯をし、あるものは薪をとりにゆき、またあるものは掃除をしました。ある日、パンがなくなりましたが、お使にゆくものは出てしまっていました。そこで、隊長が、自分の仕事をやってしまっていましたが、その隊員にパンを買いにゆけと命じました。その子供はどうしたでしょうか。
[ 話2 ]
お母さんが木曜日の午後でした。大変疲れていましたので、自分の小さな息子と娘に、お手伝いをするように命じました。女の子は皿を洗い、男の子は薪をとりに行くことになりました。ところがその小さい男の子(または小さい女の子)は、街に遊びに行ってしまいました。そこでお母さんはも一人の子に仕事をみんなしなさいといいつけました。その子は何といったでしょうか。
話1 話2
年齢 服従 平等 服従 平等
% % % %
6 95 5 89 11
7 55 45 41.2 58.8
8 33.3 66.6 22.2 77.8
9 16.6 83.4 0 100
10 10 90 5.9 94.1
11 5 95 0 100
12 0 100 0 100
「ラムベール女史がジュネーヴとヴォー県で、六歳から十二歳という約百五十名の子供につき、得た数字を引用するのは興味あることと思う。これらの結果の規則正しさは、少なくとも、年齢の機能としてすすむある形態の進化と関係があることを示すものである。小さい子供は権力に傾き、命令されたことは何でも正しい(服従は単に必要であるばかりでなく、命令された行動は与えられた秩序に一致する限りそれ自体において正しい)と考えるに反して、大きい子供は平等に傾き話中に述べられた命令も不正だと考えている。」
パール(6年半・女児)話1
―その子はパンを買いに行かなければいけない
―なぜ?
―いいつけられたから
―そのいいつけられたことは公正?それとも公正でない?
―ええ、公正、いいつけられたんだから
話1
―それをしてはいけない。それは自分の仕事じゃない
―それをするのは公正?
―いいえ。公正じゃない
ベル(10年)話1
―その子は行こうとしなかった。他のものが行かなきゃいけないといった
シュン(12年・女児)話2
―それをしてはいけない。その子が二重に仕事をして、他の子がしないのは公正じゃない
―どんなことをしなければならなかった?
―お母さんはこういわなければいけない。『それは公正じゃない。他の子が何もしないで、自分だけ二重に仕事をしなければならんことはない』
「児童間の正義」に関する調査【注:ピアジェ臨床児童心理学p426~p439】
[ 話1 ]
ある時ボーイスカウトのキャンプに出かけました。めいめいが本分をつくして仕事をし、すべてを整頓よくしなければなりませんでした。あるものはお使にゆき、あるものは洗濯をし、あるものは薪をとりにゆき、またあるものは掃除をしました。ある日、パンがなくなりましたが、お使にゆくものは出てしまっていました。そこで、隊長が、自分の仕事をやってしまっていましたが、その隊員にパンを買いにゆけと命じました。その子供はどうしたでしょうか。
[ 話2 ]
お母さんが木曜日の午後でした。大変疲れていましたので、自分の小さな息子と娘に、お手伝いをするように命じました。女の子は皿を洗い、男の子は薪をとりに行くことになりました。ところがその小さい男の子(または小さい女の子)は、街に遊びに行ってしまいました。そこでお母さんはも一人の子に仕事をみんなしなさいといいつけました。その子は何といったでしょうか。
話1 話2
年齢 服従 平等 服従 平等
% % % %
6 95 5 89 11
7 55 45 41.2 58.8
8 33.3 66.6 22.2 77.8
9 16.6 83.4 0 100
10 10 90 5.9 94.1
11 5 95 0 100
12 0 100 0 100
「ラムベール女史がジュネーヴとヴォー県で、六歳から十二歳という約百五十名の子供につき、得た数字を引用するのは興味あることと思う。これらの結果の規則正しさは、少なくとも、年齢の機能としてすすむある形態の進化と関係があることを示すものである。小さい子供は権力に傾き、命令されたことは何でも正しい(服従は単に必要であるばかりでなく、命令された行動は与えられた秩序に一致する限りそれ自体において正しい)と考えるに反して、大きい子供は平等に傾き話中に述べられた命令も不正だと考えている。」
パール(6年半・女児)話1
―その子はパンを買いに行かなければいけない
―なぜ?
―いいつけられたから
―そのいいつけられたことは公正?それとも公正でない?
―ええ、公正、いいつけられたんだから
話1
―それをしてはいけない。それは自分の仕事じゃない
―それをするのは公正?
―いいえ。公正じゃない
ベル(10年)話1
―その子は行こうとしなかった。他のものが行かなきゃいけないといった
シュン(12年・女児)話2
―それをしてはいけない。その子が二重に仕事をして、他の子がしないのは公正じゃない
―どんなことをしなければならなかった?
―お母さんはこういわなければいけない。『それは公正じゃない。他の子が何もしないで、自分だけ二重に仕事をしなければならんことはない』
ピアジェの理論を発展させたものが、コールバーグによる道徳性発達段階理論である。
コールバーグはピアジェの他律的段階と自律的段階のほかに、さらに四つの段階を見いだした(「道徳性の発達と道徳教育」ローレンス・コールバーグ著・岩佐信道訳P20)と述べている。
その四つの段階について、コールバーグは「道徳的判断」という能力は、どうしてその行為のほうが正しいと考えるのか、という見方に注目し、「罰せられることを避けるというような段階」から、「社会的に決められたきまりを守るという段階」、「社会的な契約に従うというような段階」を経て、最終的には、「公正というような普遍的な道徳原理の段階」に至るとしている。(「道徳性の発達と教育」永野重史編)
彼は、認知的な発達段階を測る方法として、10種類ほどの道徳的ジレンマ・ストーリーを用いている。
すなわち、危機的場面を含む簡単な物語を被験者に示し、物語の主人公のとった行動の是非と、その理由をただし、その結果を通じて被験者の道徳性の発達段階を特定しようとするものである。
コールバーグは、人間の道徳判断の発達を、3つのレベルと、それぞれのレベルに2つずつの段階を配した、計6つの段階があるとする発達段階説を唱えた。
「道徳性の段階の定義」(「道徳性の発達と道徳教育」ローレンス・コールバーグ著・岩佐信道訳P171~p186)
Ⅰ 慣習以前のレベル(自己中心的判断)
このレベルでは、子どもは「善い」「悪い」「正しい」「正しくない」といった個々の文化の中で意味づけられた規則や言葉に反応するが、これらの言葉の意味を、行為のもたらす物理的結果や、快・不快の程度(罰、報酬、好意のやりとり)によって考えたり、そのような規則や言葉を発する人物の物理的な力によって考える。
このレベルには、次の二つの段階がある。
第1段階(罪と服従志向)
行為の結果が、人間にとってどのような意味や価値をもとうとも、その行為がもたらす物理的結果によって、行為の善悪が決まる。罪の回避と力への絶対的服従が、ただそれだけで価値あることと考えられる。それは、罰や権威が支持する根本的な道徳秩序に対する尊重からではない。(後者の場合は第4段階)
第2段階(道具主義的相対主義的志向)
正しい行為とは、自分自身の必要と、ときに他者の必要を満たすことに役立つ行為である。人間関係は、市場の取引関係に似たものと考えられる。公正、相互性、等しい分け前等の要素が存在するが、常に物理的な有用性の面から考えられる。相互性も「あなたが私の背中をかいてくれたから、私もあなたの背中をかいてあげる」式の問題であって、忠誠や感謝や正義の問題ではない。
Ⅱ 慣習的レベル
このレベルでは、個人の属する家族、集団、あるいは国の期待に添うことが、それだけで価値があると認識され、それがどのような明白な直接的結果をもたらすかは問われない。その態度は、個人的な期待や社会の秩序に一致するというだけでなく、社会の秩序に対する忠誠と、その秩序を積極的に維持し、正当化し、かつその中に存在する個人や集団と一体になろうとする態度である。このレベルには、次の二つの段階がある。
第3段階(対人関係の調和あるいは「良い子」志向)
善い行動とは、人を喜ばせ、人を助け、また人から承認される行動である。多数意見や「自然な」行動についての紋切り型のイメージに従うことが多い。行動は、しばしばその動機によって判断される。「彼は善意でやっている」ということが初めて重要になる。「良い子」であることによって承認をかちえる。
第4段階(「法と秩序」志向)
権威、定められた規則、社会秩序の維持等への志向が見られる。正しい行動とは、自分の義務を果たし、権威を尊重し、既存の社会秩序を、秩序そのもののために維持することにある。
Ⅲ 慣習以後の自律的、原理的レベル
このレベルでは、道徳的価値や道徳的原理を、集団の権威や道徳原理を唱えている人間の権威から区別し、また個人が抱く集団との一体感からも区別して、なお妥当性をもち、適用されるようなものとして規定しようとする計画な努力が見られる。
第5段階(社会契約的遵法主義志向)
概してこの段階には、功利主義的なところがある。正しい行為は、一般的な個人の権利や、社会全体により批判的に吟味され、合意された基準によって規定される傾向がある。個人的価値や意見の相対性が明瞭に承認され、それに呼応して、合意に至るための手続き上の規則が重視される。正しさは、憲法に基づいて民主的に合意されたもの以外は、個人的な「価値」や「意見」の問題とされる。その結果、「法の観点」が重視されるが、(第4段階の「法と秩序」によって、法を固定的に考えるのでなく)社会的効用を合理的に勘案することにより、法を変更する可能性が重視される。法の範囲外では、自由意志に基づく合意と契約が、人間を拘束する義務の要素となる。これは、アメリカ合衆国政府と憲法のよって立つ「公的」道徳である。
第6段階(普遍的な論理的原理志向)
正しさは、論理的包括性、普遍性、一貫性に訴えて自ら選択した論理的原理に一致する良心の決定によって限定される。これらの原理は、抽象的かつ倫理的であり(黄金律、定言命法)、十戒のような具体的道徳律ではない。もともとこれらの原理は、人間の権利の相互性と平等性、一人ひとりの人間の尊厳性の尊重など、正義の普遍的諸原理である。
各段階の答え方の例
〈ハインツの葛藤場面〉
ヨーロッパで、一人の女性が非常に重い病気、それも特殊なガンにかかり、今にも死にそうでした。彼女の命が助かるかもしれないと医者が考えている薬が一つだけありました。それは、同じ町の薬屋が最近発見したある種の放射性物質でした。その薬は作るのに大変なお金がかかりました。しかし薬屋は製造に要した費用の十倍の値段をつけていました。彼は単価二百ドルの薬を二千ドルで売っていたのです。病人の夫のハインツは、お金を借りるためにあらゆる知人を訪ねて回りましたが、全部で半額の千ドルしか集めることができませんでした。ハインツは薬屋に、自分の妻が死にそうだとわけを話し、値段を安くしてくれるか、それとも、支払い延期を認めてほしいと頼みました。しかし薬屋は「だめだね。この薬は私が発見したんだ。私はこれで金儲けをするんだ」と言うのでした。そのためハインツは絶望し、妻のために薬を盗もうとその薬屋に押し入りました。
第一段階(トミー、十歳)
「ハインツは盗むべきではありません。薬を買うべきです。彼がもし薬を盗めば、刑務所に入れられ、どうせ薬をかえさなければならないでしょう」「しかし、ハインツの奥さんは、星条旗を作ったベツィ・ロスのように重要な女性であるかもしれないから、ハインツはたぶん薬を盗むべきでしょう」
第二段階(トミー、十三歳)
ハインツは奥さんの命を助けるために薬を盗むべきです。彼は刑務所行きになるかもしれませんが、それでも彼には奥さんがいますから」
<トミー、あなたはハインツが奥さんのために薬を盗むべきだと言いましたね。もし死にそうなのが友だちだったとしたら、ハインツは友だちのために盗みをすべきでしょうか>
「それは行き過ぎです。友だちが助かって元気になったとき、ハインツは刑務所にいることになるかもしれません。友だちが彼のためにそんなことまでするとは思えません」
第三段階(トミー、十六歳)
「もし僕がハインツだったら、僕は妻のために薬を盗んでいたと思います。愛情に値段をつけることはできません。いくら贈り物をしても愛情にはなりません。命に値段をつけることはできません」
第四段階(トミー、二十一歳)
「結婚するとき、人は妻を愛し、大事にすると誓います。結婚は愛情だけではなく法的契約に似た一つの義務でもあるのです」
第五段階(ケニー、二十五歳)
「人命が危機に瀕していたのだから、ハインツが押し入っても、正当な理由があったと思います。それは、薬屋の薬に対するいかなる権利よりも優先するものだと思います」
<価格を制限する法律がない場合、薬屋には、これほど高額の値段をつける権利があるでしょうか>
「薬屋は法的な権利をもっていますが、道義的権利はないと思います。こんな利益は多すぎます。それは、彼が払った金額の十倍です」
<ハインツが他の方法ではその薬を手に入れられない場合、奥さんのために薬を盗むことは、彼の義務または責務でしょうか>
「この場合にも、奥さんの命が危機にさらされているという事実は、ハインツの行動を判断するのに使う他のいかなる基準にも優先すると私は思います」
<なぜですか>
「人間はおそらく最高の存在であり、私たちは地球上で最も価値のある資源でしょう。人間の生命を維持するのは大切なことです」
<近親者でもないある人が死にかけているとしましょう。しかし、その人を助ける人は他には誰もいません。そのような他の人のために薬を盗むことは正しいでしょうか>
「それは、ハインツが行なうべきことです。首尾一貫するためには、イエス、と言わなければならないでしょう。やはり、道徳的見地からすれば、彼がなすべきことです」
<その道徳的見地とは何ですか>
「どんな人間も生きる権利をもっていると思うし、人命を救う方法があって、その人が助けてほしいと望む場合、助けるべきだと思います」
<道徳という言葉は、あなたにとってどんなことを意味しますか>
「それは、ある目的をもった行為だと思うのですが・・・・・・。この点については、自分の考えを整理する必要があります。世の中にその答えを知っている人はいません。それは、何かをする個人の権利を仮定したり、認めることだと思います。そうですね。基本的には、他人の権利を認めることです。他人の権利を侵害しないことです。公平に振る舞うことです。古くさく聞こえるかもしれませんが、ちょうど人が自分に対して公平に、誠実に振る舞ってほしいと思うようにです。それは、基本的には、人間の生存権を守ることであり、これが最も大切だと私は思います。第二に、他人の権利を侵すことなく、自分のしたいようにする権利です」
第六段階(ジョーン、三十二歳)
<さて、第一の質問は、この状況の中にどのような問題があると思いますか>
「ハインツにとっての問題は、妻が死にかけていることです。そして盗みを禁じている社会的規則に従うか、妻の命を救うために罪を犯すか、という板ばさみになっていることです。私は、薬屋のほうにも葛藤があると考えたいですね。ある状況の中で、葛藤が起これば、いつも・・・・・・。複数の人が状況を理解すれば、葛藤が共有されます。そして各人の葛藤がいわば互いに相手に伝わります。そしてそれをいわば、“持ち寄る”ことによって、ある程度葛藤は解決されると思います・・・・・・複数の人を巻き込んだ状況で、複数の人が葛藤を意識すれば、そこにはおのずから各人が解決すべき問題、各人が考慮すべき事柄が存在することになると思います。そして各人は、その葛藤の中で起こる事態に影響力を持つようになると思います。もし私がハインツならば、薬屋と話し合いを継続します。・・・・・・私はどんな決定でも黙って座って下せるとは思いません。私には対話が、しかもこのような状況の下では、継続的な対話が非常に重要だと思われます。しかし、他にできることは何もないような段階になり、奥さんと相談したうえで、それがハインツにとって受け入れることのできる選択の道であるとの結論に二人が到達すれば、そのときにはハインツは盗むべきです。それは、究極的には義務と義務の対立ということになるからです。一方で、ハインツは、まさに人類の一員であるという理由で、一つの責務つまり他人を守るという義務があると思います。こう言っていいと思います。そこで、これら二つの義務が対立するということになれば、人命保護のほうがより重要であると思います」
<人の生命を救うためにできることは何でもすることは、重要なことでしょうか>
「いいえ。今話しているこうした当然の責任はあります。つまり、一個の自律的な人間として、人間の尊厳性と高潔さを保持する責任はあります。でも、“人の生命を救う責任が自分にあるのだろうか”と考えたとき、それは一概には言えないと思います。もし、私が通りを歩いているときであれば、責任があると言えるでしょう。私は、誰か他の人の生命を救うためにできることは何でもするでしょう。私が言いたいのは、もし誰かが車のすぐ前を歩いているのを見たら、私はその人を車の進路の外に突き飛ばすだろうということです。それが私のとっさの反応だろうと思います。しかしもっとちがった状況では、話は別です。もしあなたが不治の病にかかって、理性的に判断して自殺を望み、もはや化学療法やそれに類したいくつもの治療をこれ以上受けたくないと決心しているとすれば、私は、あなたのそうした立場に介入し、あなたはこの化学療法を受けなければなりません。そうすれば一週間、あるいは一か月やそこら命を延ばすことができます。などと言う権利があるとは思いません。私は自分がそんなことをするとは思いません」
<次の質問をさせてください。ハインツと薬の状況で、盗むべきかどうかを決める場合、このような決定に際して、あなたの心の中でとりわけ重要な考えがありますか>
「私に言わせれば、二つあります。第一点は、関係者の間で協力的な話し合いもしないで、人の尊厳性や高潔性に影響を及ぼすような決定を下す権利は、誰にもないということです。これが第一の点です。第二点は、たった一人の人が決断するという、この非常に奇妙な状況の下で、私はそんなことが起こるなんてことは理解に苦しむのですが、人間の尊厳性と高潔性を守るということ・・・・・・そこにいつも生命、人の生命という理由が含まれているからなのです。ですから私が言おうとしているのは、そうですね・・・・・・私は生命を持続させることが唯一の本質的で究極的なことと言っているのではありません。私は、人間の尊厳性と高潔性を守ることが重要なことだと思います。」
〈もしハインツが妻を愛していないとしたら、彼は妻のために薬を盗むべきでしょうか〉
「私は、彼が愛情から薬を盗むべきだとは思いません。そこまでくれば、愛情からではなく、生命を保存するという責任感から薬を盗むべきだと思います。私がここで使っている責任とは、あらゆる生命の尊厳性を認めることを意味していると思います。しかし、お望みなら、その意味を人間に限定してもかまいません。そして責任とは、まさにそのような認識に伴う真に重要なものだと思います。もし私があなたを尊厳性をもった被造物として尊重し、またあなたのかけがえのない特別な存在を尊重するならば、その点を認識する私は、あなたのことに余計な口出しはしないでしょうし、あなたを意図的に傷つけたりしないでしょう。責任を果たすということには、こうした一連の消極的な態度が伴いますが、また積極的な態度もあります。それは、あなたをなんらかの意味において独自の、重要で高潔な存在として認識することであり、そのすべてを守るために私にできることをすることなのです」
〈死にそうな人が、実はハインツの妻ではなく、よその人だと考えてください。ハインツは知らない人のために薬を盗むべきでしょうか〉
「はい」
〈それは、ハインツにとって義務ないし責務でしょうか〉
「私が何かをする責務を感じるときには、それは誰か他の人が、私に対して特別の権利を主張しているのだと考えます。つまり、私たちすべての者が他の人に対して行う最低限の権利の主張の範囲を超える権利の主張です。私にとっては、それが責務です。責任とは、外部から私に課されるものではなく、人間である私の本性の一部です」
コールバーグは、人が行為を行う上での善悪の判断に、価値葛藤(ジレンマ)資料を使った。つまり複数の道徳的価値を提示し、その人にとっての道徳的価値の優位性を問うたのである。その判断と理由によってその人の道徳性の発達段階が認知できるとしたのである。
しかし、価値の優位性を判断することは価値論における問題であり、その点に関わる認知力の高さと、実際の人間の行為は必ずしも一致しない。
「わかっちゃいるけど、やめられない」、そこに善悪の認知が出来る人間が、悪と判断する行為を行ってしまう人間としての性が存在するのである。
道徳性の育成には、コールバーグの唱える認知力の向上と共に、道徳的行為が求められる訳である。
コールバーグは道徳性の発達理論として6段階の定義を唱えているが、これは道徳的価値の優劣における価値論としての認知能力であり、この力は道徳的判断力における定義であり道徳性ではない。
したがって、コールバーグの定義である道徳性が最上位の6段階と判断された人間が、実際の行為として、資料における価値葛藤(ジレンマ)において、判断した通りの行為がとれるとは限らないのである。
また、コールバーグが第6段階とした定義にも疑問が呈されている。
第6段階を判定するために使われた、救命ボートのジレンマ資料の場合の例をあげる。
この資料のあらすじは、3人が乗った船が難破し沈没する場面において、その船には1艘の2人乗りの救命ボートしかなかった。船長と若者と老人の3人のうち、だれか一人は海にとび込まなければボートが沈んでしまうという内容の資料である。
これに関して第6段階の3人のとるべき最も正しい方法は誰が海に跳び込むかを、くじ引きで決めることであった。
なぜなら、体力や他者への貢献度の違いにかかわらず、この3人は人間として等しく生きたいという願望をもっており、その願望を最も公正に尊重する方法は、くじ引き以外にないという理由である。
この考えには、人間を等しく尊重するという理念が貫かれているものの、論理的思考における普遍性の側面のみが強調され、他の道徳性の側面が必ずしも充分に扱われていないきらいがあるという指摘がなされた。
1998年に公開されたハリウッド映画に「アルマゲドン」というものがあった。
同様な内容のジレンマ問題が取り上げられている映画である。
その映画のあらすじを紹介する。
ブルース・ウィルス主演で、隕石から地球を守るために、宇宙に飛び立つ石油発掘チームの活躍を描いた作品である。
「大気圏に突入してきた流星群による事故が多発。人々が恐怖と不安感に駆られる中、テキサス州に匹敵する大きな小惑星が地球に接近している事がNASAの調査により判明した。小惑星が地球を直撃するまで残り18日。衝突すれば地球に再び氷河期が訪れ、人類の絶滅は免れない。小惑星の軌道を変え、衝突を回避する手段はたった一つ。
誰かが降り立ち内部まで採掘し、中で核爆弾を爆発させるのである。
石油発掘のスペシャリストとして知られるハリー(ブルース・ウィルス)と娘のグレースが、NASAに呼び出され、彼は石油会社の発掘チーム仲間8人と、12日間の訓練を受けたのち宇宙へ向かう。ハリーの部下AJはグレースの恋人で、「地球に帰ったら結婚しよう」とプロポーズをした。その様子をハリーは影から見守っていた。
6人のNASAの乗組員と8人の作業員が乗り込んだ2機のスペースシャトルが地球を飛び立った。
小惑星の裏側にたどり着いた2機は着陸を試みるが、そのうちの1機は隕石が当たり墜落。
AJを含む生き延びたメンバーは、無事にたどり着き、発掘作業を開始する。
作業が進み、あとは爆弾を設置してリモコンのスイッチを押すだけとなった時に、リモコンは故障し、誰かが惑星に残り手動でスイッチを入れることになった。
くじ引きの結果AJが残ることになった。
犠牲となる覚悟を決めたAJでしたが、直前で自分がその役割を果たすというハリー。
グレースのことを頼むよう告げると、AJを宇宙船に乗せ帰らせます。
ハリーは起爆スイッチを押しました。
ハリーの犠牲によって、地球の危機は救われ、AJとグレースは、犠牲となった乗組員の遺影の前で結婚式を挙げる、という筋書きの映画でした。
つまり、このジレンマストーリーによる映画でも、コールバーグの第6段階の論理であったわけである、その場にいあわせた人たちがとるべき最も正しい結論は、やはり「くじ引きで決めること」であったわけである。
しかし、コールバーグの第6段階の定義には普遍的な論理というものがあるが、映画の結末で違った点はその後、自ら進んで犠牲を申し出る人が現れたことである。
また、その点に不随する例として、
ソクラテスが捕らえられた牢獄の中で、牢からの脱獄を勧める弟子たちに「悪法もまた法である」として、自らの意志で毒盃を飲み干した事実があること。それは生命よりも法の価値を上位に置いたものである。
同様に、日本人の山口義忠という判事は、大東亜戦争後日本は大変な食糧不足に落ちいていた時期、政府が定めた食糧管理法に基づき配給される合法的な少量の食糧だけでは、とうてい健康を維持することができなかった。従って庶民の誰もが非合法の闇米を買って生活していたが、山口は法の番人としての自覚から決して闇米を口にせず、栄養失調で亡くなるのである。
これらの事例は、コールバーグの第6段階の定義であるところの、
「正しさは論理的原理に一致する良心の決定によって限定される。」
「正義の普遍的諸原理である。」
という普遍的論理に従っていない。
しかし、コールバーグの研究は、心理学という分野にとどまらず、日本の道徳教育に大きな影響を及ぼした。
道徳教育は道徳的価値を深め、道徳的判断力を育成することが求められているからである。
道徳的問題において、「何が道徳的に正しいのか」「善とされるのは、なぜか」を深める上でコールバーグ理論は大きさ示唆を与えている。
コールバーグの道徳性発達段階、言い換えれば価値葛藤場面における価値の優位性を判断する力は、道徳的判断力の段階であり、その点を明らかにした。
したがって、コールバーグは価値論という問題を道徳教育に持ち込み、道徳性における認知的側面の力、道徳的判断力を評価し定義付けた意義は大きい。
彼の価値論においては、より高い段階の規準(道徳的判断)になるほど、「普遍的論理」となることを示している。
コールバーグの理論の中核は、「認知論」と「普遍主義」であり、普遍的な道徳性の発達段階には、道徳的理性や知性の裏付けがあるともいえよう。
そのことは「道徳は教えられるのか」という、道徳教育の抱える大きな問題の答えを含んでいるのではないだろうか。
コールバーグの理論は、現在でも賛否両論の立場から研究が続けられている。
人間の生命の道徳的価値に関する考え方の六段階
第一段階
(生命の道徳的価値と生命の物理的価値ないし社会的地位による価値とが未分化)
トミー、十歳〈場面Ⅲ。病気で死にそうな女の人がいて、その夫は薬代を払えない場合、薬屋はなぜその女の人に薬をあげなければならないでしょうか〉
「ある重要な人物が飛行機に乗っていて、気分が悪くなったとします。もしステュワーデスが、残りの薬は一人分しかなく、後ろの座席に病気の友だちがいるために、その重要人物には薬をあげられなかったとすれば、そのステュワーデスは、重要な人物を助けなかった罪で、きっと刑務所に入れられるでしょう」
〈一人の重要な人物の命を救うほうがよいでしょうか。それともたくさんのあまり重要でない人間の命を救うほうがよいでしょうか〉
「重要でなくとも全部のひとです。どうしてかというと、一人の人間でも一軒の家とおそらくたくさんの家具を持っているけれど、多くの人を合わせるとものすごくたくさんの家具になるし、その人たちの中には、そう見えないだけで実際は金持ちの人がいるかもしれないからです」
第二段階
(人間の生命の価値は、本人や他の人々の欲求充足の手段と考えられる。命を救うという決断は、本人次第であるとか、その決断は本人がすべきであるとされる。
生命の物理的価値と利益価値とが区別され、また自分にとっての価値と他人にとっての価値が区別される)
トミー、十三歳〈場面Ⅳ。医者は、助かる見込みのない病気にかかり、痛みに耐えきれず殺してほしいと頼む女性を安楽死させるべきでしょうか〉
「その痛みから解放してあげることは、おそらくよいことです。彼女は、そのほうが楽になるでしょう。でも夫はそれを望まないでしょう。動物とは違うから。もしペットが死んでも、ペットは本当に必要なものではないから、いなくても、やっていけるでしょう。たしかに、新しい奥さんをもらうこともできるけど、本当に前の奥さんと同じではありません」
ジム、十三歳〈同じ質問〉
「もし彼女がそれを求めているとすれば、まさに彼女の気持ち次第だと思います。彼女はひどい痛みに苦しんでおり、ちょうど人がいつも動物を痛みから解放してやるのと同じです」
第三段階
(人間生命の価値は、本人に対する家族やその他の人々の共感と愛情に基づいている。
人間の生命の価値は、社会的共有、コミュニティおよび愛情に基づき、動物にもあてはまる生命の道具主義的、快楽主義的価値と区別される)
トミー、十六歳〈同じ質問〉
「彼女にとっては一番いいかもしれないけど、夫にとっては、・・・・・・人間の命で・・・・・・動物とは違うから・・・・・・動物は、人間が家族に対してもつような関係はもっていません。犬に愛着を感じるようになることはできても、人間とは全然違うでしょう」
第四段階
(生命は、権利と義務に関する絶対的な道徳的秩序もしくは宗教的秩序の中での位置づけにより神聖なものと考えられる。
道徳的秩序の絶対的構成員としての人間の生命の価値が、家庭などにおける他の特定の人々にとっての価値から区別される。しかしながら、生命の価値は、依然としてある程度は集団、国家、神などへの奉仕に依存している)
ジム、十六歳〈同じ質問〉
「わかりません。ある意味で、それは殺人であって、誰が生き誰が死ぬべきかを決めることは、人間の権利でもなければ特権でもありません。神が地上のすべての人に生命を与えたのです。ですから、人を殺すことは、直接神から授かったものをその人から奪うことであり、非常に神聖なものを壊してしまうことです。また人間の命は、ある意味で神の一部とも言えますから、それは、神の一部を壊すことになります。どんな人にも神的なものがあると思います。」
第五段階
(生命は、コミュニティの福祉との関係において尊重され、また、それが普遍的な人間の権利であるという点において尊重される。
生命の基本的権利を尊重する義務が、社会的、道徳的秩序に対する一般的尊重から区別される。独立した人間生命の一般的価値は、他の価値に従属することのない基本的な自律的価値である)
ジム、二十歳〈同じ質問〉
「人間の生命を救う責任を引き受けた医者の倫理からすれば、その点からは、彼はたぶん安楽死させるべきではないでしょう。しかしもう一つ別の面があります。いずれ死ぬことがわかっているときに、それは、誰にとっても、当人にも家族にも苦痛であると考える人が医学の専門家の間に多くなっています。人間が人工肺や人工肝臓で生きながらえても、それは生きた人間であるより植物に近いといえます。もしそれを彼女が自分で選んだのであれば、人間であるということに伴う一定の権利と特権があると思います。私は人間ですし、ある人生の望みをもっています。他の人もみな同じだと思います。人は自分を中心にした世界をもっています。そして他の人もみなそうです。その意味で、私たちすべて平等なのです」
第六段階
(個人の尊重という普遍的な人間の価値を表すものとして、人間の生命は神聖であるという信念。
道徳的原理の目的物としての人間の道徳的価値が、人間の諸々の権利の形式的承認から区別される)
ジム、二十四歳〈場面Ⅲ。夫は妻を救うために薬を盗むべきでしょうか。ただの知人のためだったらどうでしょうか〉
「盗むべきです。人間の命は、それが誰の命であろうと、他のいかなる道徳的もしくは法律的価値にも優先します。人間の命は、特定の個人によって価値を認められようと認められまいと、固有の価値をもっています」
〈どうしてそうですか〉
「一人ひとりの人間の固有の価値は、正義と愛の原理があらゆる人間関係の規準となっている価値体系の中でも中心的な価値なのです」
道徳的行為を行う動機(出典 レスト、一九六八年)
第一段階
〔行為の動機は、罰の回避にあり、「良心」は罰に対する非理性的な恐怖心である。〕
賛成 もし妻を死なせてしまえば、自分が困ったことになるでしょう。妻を救うためのお金を惜しんだと非難されるだろうし、妻の死に関して、薬屋とともに取り調べを受けるでしょう。
反対 もしも薬を盗めば、捕まって刑務所に入れられますから、薬を盗むべきではありません。もし罰を免れても、自分の良心は、いつも、警察がどうやって自分を捕まえるだろうかと考えて自分を悩ますことでしょう。
第二段階
〔行為の動機は、報酬もしくは利益の願望である。罪に伴って起こるかもしれない反応は無視され、罰は実用主義的に考えられる。〕(自分の恐怖、不快もしくは苦痛が、結果としての罰から区別される)
賛成 もしたまたま捕まったとしても、薬を返すことができるから、重い罪の宣告は受けないでしょう。刑務所から出たときには妻がいるとすれば、わずかの期間刑務所で服役しても、さほど辛くないでしょう。
反対 もし彼が薬を盗んでも、長く刑務所に留置されることはないかもしれません。しかし、たぶん彼が出所する前に妻は死ぬでしょうから、彼にとってあまりよい事態にはならないでしょう。もし妻が死んでも、彼は自分を責めるべきではありません。彼女がガンになったのは、彼の落ち度ではないのです。
第三段階
〔行為の動機は、実際のものであれ、(例えば罪意識のような)想像された仮定的なものであれ、予想される他者の否認である。(否認が罰、恐怖、苦痛から区別される)
賛成 もし薬を盗んでも、その人を悪い人間だと思う人はいないでしょうが、盗まない場合には、家族の者は、人でなしの夫と思うでしょう。もし妻を死なせてしまえば、誰に対しても、二度とまともに顔を向けられなくなるでしょう。
反対 薬屋だけでなく、他のすべての人から犯罪者と考えられるでしょう。薬を盗んだ後で、自分の家族と自分自身の顔に泥を塗るようなことをどうしてしたのかと後悔するでしょう。また、誰にも二度と顔向けできなくなるでしょう。
第四段階
〔行為の動機は、予想される不名誉、つまり義務の不履行に対する公的な非難の予測や、人に対して加えた具体的な危害に対する罪の念である。(公的な不名誉が、非公式の否認から区別されます。悪い結果に対する罪の念が、否認から区別される)
賛成 もし多少とも名誉を重んじる気があるなら、自分の妻を救う唯一の方法を実行するのがこわくて、死なせてしまうようなことはないでしょう。もし妻に対する義務を果たさなければ、自分が彼女を死なせてしまったと、絶えず罪を犯したと感じるでしょう。
反対 自暴自棄になっているから、薬を盗むときには、自分が間違ったことをしていることがわからないかもしれません。しかし、罰を受け、刑務所に送られた後で、自分が間違ったことをしたことがわかるでしょう。自分の不正と法を犯したことに対する罪の念を常に感じることになるでしょう。
第五段階
〔対等の人々やコミュニティからの尊敬(この場合、その尊敬は、情緒でなく、理性に基づくと考える)を確保しようとする関心。自分の自尊心についての関心、つまり自分を非合理的で、一貫性がなく、目的のない人間と判断せざるをえないようなことを避けようとする関心。(制度的非難とコミュニティからの軽蔑もしくは自己蔑視とが区別される)
賛成 盗まなければ、人々の尊敬をかちえるどころか、尊敬を失ってしまうでしょう。自分の妻を死なせるとすれば、それは考え抜いた結果でなく、恐怖心の結果です。したがって、まさに自分の自尊心を失うとともに、おそらく他の人々の尊敬をも失ってしまうでしょう。
反対 コミュニティでの自分の地位と尊敬を失い、法を犯すことになります。もし感情に流され、長期的展望を忘れてしまえば、自尊心も失ってしまうでしょう。
第六段階
〔自分自身の原理を踏みにじることに対する自己非難についての関心。(コミュニティの尊敬と自尊心とが区別される。何かを達成しようとする一般的な合理性に対する自尊心と、道徳原理を維持することに対する自尊心とが区別される)〕
賛成 もし薬を盗まないで、自分の妻を死なせてしまえば、後になってそのことで絶えず自分を責めることになるでしょう。人から非難されることもなく、法の表面上の規則に従ったことになるかもしれませんが、自分自身の良心の規準に従わなかったことになります。
反対 もし薬を盗めば、人からは非難されないかもしれませんが、自分自身の良心と誠実の規準に従わなかったという理由で、自分自身を責めることになるでしょう。
上記がコールバーグの道徳性発達理論である。
コールバーグの6段階の道徳性発達段階を解説したものを紹介する。
これには道徳性発達段階に、段階0を加えている。
段階0 自己中心的判断(就園前 4歳前後)
自分の欲求が正しいという信念が道徳の判断基準となる。4歳児の自己中心性と2歳児のそれと異なるのは、2歳児は単に自分が「~したい」という欲求が中心になるのに対して、この段階の子どもは、自分が欲しいものが叶えられないのは、フェアじゃないという主張が強くなる。たとえば、自分が勝手に砂場でトンネルを作ろうとしていたのに、隣で砂場遊びをしていた兄がトンネルを作ってくれないから悪いと親に泣いて主張しに来たりする。一見わがままな行動に見られるが、この時期の子どもは自分なりの正義感に基づいて主張していることに考慮したい。したがって家庭でも、自分がやって欲しいことを相手がやらないから相手が悪いとは言えないのだということを場面ごとに教えていくことが求められる。
(コールバーグ理論後、ダモン、セルマンが追加した概念を井口が解説を加筆)
Ⅰ 慣習以前のレベル(自己中心的判断)
第1段階(罪と服従志向、他律性道徳 幼稚園年齢 5歳前後)
権威が持った大人が決めることが正しいことであり、それに従うことが正しいことと判断する。この段階では、先生や権威者の言うことを聞かないと叱られるといった罰回避が道徳判断の基準になってくる。事の善悪からの判断ではなく、「お店の物を黙って持ってきたらお巡りさんに捕まるからしない」など、罰を避けるために規則を守る段階である。
したがって、まだ小さいからと甘やかすのではなく、悪いことは悪いとする毅然とした親の態度が躾に功をなす時期だといえよう。挨拶や食事のマナー、睡眠・起床を含めた基本的な生活習慣などは、段階1の幼稚園から就学前までに習得させておくのが望ましいといえるであろう。
第2段階(道具主義的相対主義的志向、個人主義的な道徳性 小学校低学年)
自分が損をしていないかを考えるようになる。お手伝いをしたからお小遣いがもらえるというように、自分の行動の損得が道徳判断になる時期。この段階の子供は、友達との喧嘩も自分が殴られたから殴り返すという道徳判断をする。相手からやられたら同じようにし返ししても、いいと判断しやすい時期である。したがって、自分の損得だけでなく相手の気持ちも考えることのできる次の道徳判断に繋げる為には、大切な人が喜んでくれることに意味があるということを日々の生活の中で体験させ、教えていくことが求められる。
子供にも家族の一員としてできる仕事を手伝わせ、相手のためにできる役割を体験させたい。クラスの友達に「ありがとう」「ごめんなさい」という配慮の言葉をきちんと使えることや、上手く仲間に入れない子がいたら「一緒にやろう」などと自分から誘ってみるといった関わりの言葉が使えるように配慮したい。
Ⅱ 慣習的レベル
第3段階(対人関係の調和あるいは「良い子」志向 小学校中高学年)
親、クラスメート、担任といった身近な他人から「良い子」と評価されることに価値が置かれる段階。この段階の子供は、友達から先に殴られて殴り返したとしても、それが解決にはならないということを理解するようになる。
他人の期待に沿い、他者から評価されることで、自己評価も高まり、いい気持ちになれる。このことが、援助行動への動機付けと繋がっていく。子どもの成長に合わせて、家庭でも子どものできるお手伝いをさせたり、地域の中で子供のできそうなボランティアに参加させ、他者のために役立つ体験をさせてみるのもいいであろう。
第4段階(「法と秩序」志向 社会システムに対する責任 十代後期)
社会制度や社会的組織の維持のために自分が果たさなくてはならない義務に対しての自覚が高まる。法を遵守し、地域社会や国のために貢献するといったことが判断の基準になる。自分や自分の家族の利益ばかり求めていては、地域社会や国が継続しないという意識が生まれる。万引き行為が悪いという理由付けも、店主や自分だけの視点からでなく、万引き行為が及ぼす消費者への影響、社会へ影響の視点からも判断されるようになる。
この段階になると、世の中の価値観には、自分の周りで求められている価値観だけでなく、様々な善悪を判断する基準があることにも気がついてくる。したがって、自分の中で大切と考えていることと社会の一員としての責任意識を調和させた道徳観を獲得できるように、親は少し離れて子供の自立を支援したい。
Ⅲ 慣習以後の自律的、原理的レベル
第5段階(社会契約的遵法主義志向 規律的な良心 成人早期)
法を人間尊重という視点から客観的に見ることができる。人間尊重が道徳判断の基準となる。人々のために社会システム(社会制度や社会組織)は存在するのであり、その逆ではないということを理解する。法律が人々の権利を保障するという意味において法を重んじる。前の段階4では、自分の地域社会や国が継続するために果たすべき自分の義務を意識するようになるが、段階5では人間であるとはどういうことかを意識するようになる。自分の道徳判断が自分の属している社会組織を継続していくのに役立つかではなく、人々の尊厳や権利を尊重できているかが重要とされる。
段階4も段階5も規則や法を重んじ、家族や地域社会や国家の継続に尽くそうとする行動では差異が見られない。しかし、段階5では自分の属している組織が間違っている場合でも道徳判断を客観的に行える判断力が獲得される。正当な理由があれば、規則は変えていくべきものと考えられるようになる。
第6段階(普遍的な論理的原理志向 普遍的倫理原理)
法律が倫理的原理(正義、公平)に反している場合には倫理的原理に従うべきと考える。正義、平等、尊厳などの視点から、法と道徳の区別がつけるようになる。
コールバーグの道徳判断の発達理論には、正義よりも他者への配慮を重んじる女性的な道徳判断が高く評価されず、逆に、正義・権利が道徳判断となる男性的な視点が最も高い段階6に置かれるなど、道徳判断の基準に性差の隔たりが見られることや、人間の道徳性発達の一面を扱っているにすぎず、仮想の道徳問題ばかりで、実際に直面した道徳的葛藤場面では、異なることがギリガンによって指摘されている。
コールバーグは自分の明らかにした発達段階は、正義の判断の発達段階であり、道徳性の全領域をカバーするものではないとして反論した。
シンプソンは、コールバーグの慣習以後の段階の思想は、道徳的思考の発達というよりも、単なる知的、言語的に洗練された推論にすぎない、と言っている。
またディエンは、「コールバーグの6つの段階は、人間が自由に自己の選択をし、自己の運命を決定できる自立的な存在であるとの西欧的考えを反映している。これに対して中国の文化的理想は〈仁〉を中核とする儒教的考え方であり、それは基本的には〈孝〉に根ざした肉親に対する深い愛情であり、家族の枠から拡大されて全人類へ向けられたものである。として、東西の道徳観の違いを指摘している。
晩年、コールバーグは第6段階を経験的データ不足として除外した。また、経験的段階として最も高い第5段階に関しても、その文化的普遍性に疑問の余地を認めている。
しかし、彼は第6段階を放棄したわけではなく、道徳的判断の発達段階の究極の到達点として、第6段階を堅持している。
以上が心理学における人間の「道徳性の発達」に関する研究の概要である。
【引用参考文献】
・自ら学ぶ道徳教育 押谷由夫編著 保育出版社 2016年第2版発行
・道徳の授業理論 押谷慶昭著 教育開発研究所 1989年初版発行
中学校 学習指導要領 平成20年3月 告示 文部科学省
・中学校学習指導要領解説 道徳編 平成20年9月 文部科学省
・「道徳」指導辞典 勝部真長編者代表 大阪教育図書 昭和36年発行
・「道徳」時間の研究 勝部真長著 国土社 1983年発行
・道徳性の発達と道徳教育 ローレンス・コールバーグ アン・ヒギンズ著 岩佐信道訳 著 広池学園出版部発行 1991年2刷発行
・道徳性の発達と教育コールバーグ理論の展開 永野重史編者 新曜社 1991年初版第4 刷発行
・道徳教育全集1子供の発達段階と道徳教育 ノーマン・ブル著 森岡卓也訳著 明治図 書出版 1990年再版刊
・ピアジェ臨床児童心理学Ⅲ 児童の道徳判断の発達 大伴茂訳著 東京同文書院 昭和 47年第3刷発行
・幸福論 ヒルティ著 草間平作訳著 岩波書店 1993年第73刷発行
・道徳教育論 エミール・デュルケム 麻生誠・山村健訳 講談社 2010年第1刷発行
・現代教養文庫 菊と刀 ルース・ベネディクト 長谷川松治訳 思想社 1994年初版第 97刷発行
・武士道 新渡戸稲造著 矢内原忠雄訳 岩波書店 2016年第103刷発行
・神谷美恵子著作集1 生きがいについて みすず書房 1994年 第18刷発行
・夜と霧 ヴィクトール・E・フランクル 霜山徳爾訳 みすず書房 1989年新装第11 刷発行
・道徳性心理学 道徳教育のための心理学 日本道徳性心理学研究会編著 北大路書房 1992年初版第Ⅰ刷
・唐澤富太郎著作集 第1巻 児童教育史-児童の生活と教育-(上) 唐澤富太郎著
ぎょうせい 平成4年初版発行
・インターネット「小さな資料室」より「学制」現代語訳引用
・インターネット「明治神宮」より教育勅語、12の徳目引用
・子供の認知発達に応じた道徳判断の育て方-小学校中高学年を中心に-
研究紀要 第39号 特集:習得・活用・探究型学力の育成と評価の理論 井口祥子
・教育勅語 朝日選書154 1989年第9刷発行 山住正己著 朝日出版社発行
・道徳教育の歴史 修身科から「道徳」へ 勝部真長・渋川久子著 1988年第5刷発行 玉川大学出版部発行
・梅原猛の授業 道徳 梅原猛著 朝日新聞社発行 2003年第一刷発行
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