道徳教育論-理論と実践-(9)
横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊
(2)明治時代から太平洋戦争に至る、日本の道徳教育(修身)の変遷
1868年に王政復古の大号令が行われ、幕府政治に終止符が打たれ天皇親政の名のもとに明治政府が成立した。
その特色は、復古と改革が同時に成立するものであった。
明治元年の五ケ条の御誓文(注)に示されている内容が具体性をもって実行に移された。士農工商という身分階級制度が廃止され、四民平等が宣言された。仇討禁止令といった旧来の封建的な因習が次々と廃止され、近代国家としての体制作りと西洋諸国の知識や実学を導入し、文明開化を強力に推し進め、日本の近代化と富国強兵を目指して改革を進めていった。
明治五年(1872年)に、フランスの「学制」に倣って「学制」が公布された。
「学制」公布は地租改正、徴兵令実施と共に、明治初期における三大改革のひとつとされている。
その性格は立身出世主義を強調した、知識を中核とする功利主義的なものであった。
「学問は身を立るの財本ともいふべきものにして誰か学ばずして可ならんや」という点を強調し、学校で知識を身につけることが、身を立てる根本になると説いている。
封建体制から帝国主義体制へと移行し、旧来の身分制度を撤廃し、四民平等や男女平等という近代的な人間観へと革命的な転換を行ったが、身分差別的な人間観は短期間に変わるものではなく、その後も長く続いていく。
堺利彦氏の、明治期における新制中学校での生活回想録を紹介する。
「私は中学校で、初めて士族以外の人間に接触して、少し世の中を知り始めた。豊津の町
の者は、一人も中学校には来なかった。豊津の者で中学校にはひるのは皆な士族であっ
た。豊津の中学校は藩学尚徳館の後身として、士族の学校たるかの観があつた。町の者
や、田舎の者(農民を指す士族の言葉)には、高等の教育を受ける資格が無かつた。
私にはそんな風に思はれてゐた。所が実際は必ずしもさうで無かった。私は・・・・・・
町人の間に富豪があり、農村に地主あり、資産家がある事を漸(ようや)くにして学び得た。
中学校には、それらの地主、資産家、富豪の子弟が入学してゐた。そしてその少年は、
言葉や風俗に於いて、多少は士族の嘲笑(ちょうしょう)を招くに足るものがあつたに係はら
ず、種々の点に於いて能く士族の子を凌駕(りょうが)し威圧するに足るものがあつた。
即ち彼等の或者は、其の粗野剛健の風に於いて、士族の子のクズ共と比べものにならな
かった。又彼等の或者は、其の俊敏(しゅんびん)な素質に於いて遥かに士族の凡くらに立ち
優つてゐた。更に又、彼等の或者は、其の富裕な生活から生じた気品に於いて貧乏たら
しい士族の子を見下すに足るのであつた。或る大庄屋の息子や、或る大町人の息子など
は、温和らしい貴族的の容貌や風采に於いて、貧弱なる下級士族の子等と類を異にする
の感があつた。
・・・・・・亡び行く階級と、勃興しつつある階級とが、暫(しば)らく行き違ひに机を並べたわ
けである。」(「堺利彦伝」現代日本文学全集39)
学制には、前文として「仰せ出だされ書」(被仰出書)がある。
この中に当時の政府の教育観が明確に示されている。
被仰出書を紹介する。
「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌(さかん)にして以て其生を遂(とぐ)るゆゑんのものは他なし身を脩(をさ)め智を開き才芸を長ずるによるなり而(しこうし)て其身を脩(おさ)め智を開き才芸を長ずるは學にあらざれば能(あた)はず是れ学校の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算を初め士官農商百行工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事學あらさるはなし人能く其才のあるところに応し勉励して之に従事ししかして後初て生を始め産を興し業を昌(さかん)にするを得べしされは学問は身を立てるの財本ともいふべきものにして人たるもの誰か學ばずして可ならんや夫(か)の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪(うしなう)の徒(やから)の如きは畢竟(ひっきょう)不學よりしてかかる過ちを生ずるなり従来学校の設(もうけ)ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及婦女子に至つては之を度外におき学問の何物(なにもの)たるを弁ぜずまた士人以上の稀に学ぶものも動(やや)もすれば国家の為にすと唱(とな)へ身を立るの基(もとゐ)たるを知(しら)ずして或は詞章(ししょう)記誦(きしょう)の末に趨(はし)り空理虚談の途(みち)に陥り其論(ろん)高尚に似たりといへども之を身に行ひ事に施(ほどこ)すこと能(あたは)ざるもの少からず是すなわち沿襲(えんしゅう)の習弊(しゅうへい)にして文明普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家(さうか)の徒(やから)多きゆゑんなり是故に人たるものは學ばずんばあるべからず之を学ぶに宜(よろ)しく其旨を誤るべからず之に依(より)て今般文部省に於て学制を定め追々(おいおい)教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今(じこん)以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑(いふ)に不學の戸なく家に不學の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜(よろ)しく此意を体認し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず學に従事せしめざるべからざるものなり高上の學に至(いたり)ては其人の材能(こころえ)に任(ま)かすといへども幼童(ようどう)の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度(おつど)たるべき事
但(ただし)従来沿襲の弊(へい)学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱(とな)ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非(あら)ざれば学ばざる事と思ひ一生を自棄(じき)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今(じこん)以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛(なげう)ち自ら奮(ふるい)て必ず學に従事せしむべき様心得べき事
右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加ヘ精細申論文部章規則ニ随ヒ学問普及及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
現代文を参考に示す。
「人々が自分自身で立身し、その財産を管理し、その事業を盛んにして、そうすることで
その一生を全うすることができるのはなぜかというと、それはほかでもない、身を修め、
知識を広め、才能や技芸を伸ばすことによるのである。そうして、その身を修め、知識
を開き、才能や技芸を伸ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を
設置してある理由であって、日常普段の行い、言葉づかいや書道、算数を始めとして、
役人、農民、商人、様々な職人、技芸に携わる人、及び法律、政治、天文、医療等に至
るまで、およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。人はその才能のあるとこ
ろに応じて勉め励んで学問に従事し、そうして初めて自分の生活を整え、資産をつくり、
事業を盛んにすることができるであろう。そうであるから、学問は立身のための資本と
もいうべきものであって、人たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろう
か(人間は誰もが皆、学ばなければならないのである)。あの路頭に迷い、飢餓に陥り、
家を破産させ、わが身を滅ぼすような人たちは、結局は学問をしなかったことによって、
このような(結果をもたらす)過ちを生じたのである。これまで学校が設けられてから
長い年月が経っているとはいっても、場合によってはそのやり方が正しくないことから
人はその方向を誤り、学問は武士階級以上の人に関することと考えて、農業、工業、商
業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものと
し、学問がどういうものであるかをわきまえていない。また、武士階級以上の人で稀に
学問する者があっても、どうかすると学問は国家のためにするものだと言い、学問が立
身の基礎であることを知らずに、ある者は文章を暗記するなど些細なことに走ったり、
空理空論や嘘の話に陥り、それらが言っている論は高尚であるかのように見えるけれど
も、これを実際に自分自身が行い、実際に実施してみることができないものが、少なく
ない。これはつまり、長い間従ってきた昔からの悪い習わしであって、文明が行き渡ら
ず、才能と技芸が伸びないために、貧乏な者や破産する者、家を失う者といった連中が
多い理由である。こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである。
学問を学ぶためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省
で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今から以後、一般の人民は、
必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしようとす
るのである。人の父兄である者は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育て
る情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。た
だし、これまで長い間従ってきた悪い習慣であるところの学問は武士階級以上の人のこ
とだとすること、そして学問は国家のためにすることだと言うことによって、学費及び
その衣類や食事の費用に至るまで、多くを官に頼り、これを給付してくれるのでなけれ
ば学ばないと思い、一生を官に頼り、これを給付してくれるのでなければ学ばないと思
い、一生を自分から駄目にしてしまう者が少なくない。これは皆惑わされていることの
甚だしいものである。今から以後、これらの弊害を改め、一般の人民は他のことを投げ
捨てて自分から奮って必ず学問に従事させるよう心得るべきであること。
右の通り仰せ出だされましたので、地方官において、片田舎の身分の低い人民に至るま
で漏らすことがないよう、適宜、学制の意味を解き明かしてやり、詳しく細かく申し諭
し、文部省規則に従い、学問が普及致しますよう、方法を設けて施行すべきであること。」
公布された学制により、日本全国は8大学区に分けられ、1大学区を32中学区とし、そのための中学校の数を256校とした。この1中学区をさらに210小学区に分けた。全国の小学校の数を53760校とした。
また「尋常小学ヲ分テ上下二等トス 此二等ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス」と義務づけ、上等小学、下等小学は各4年制で下等小学は6歳から9歳までとした。
明治5年の学制の布告によって全国に学校が置かれたことは法制上のことで、初めのうち多くの学校は、お寺や牛小屋を校舎にした、寺子屋時代と変わらないものであった。
商人はそろばんができ、女の学問は害があるばかり、という世間の風潮は根強く、明治6年の就学率は28.1%にすぎなかった。
学制によって全国に小学・中学・大学が置かれ、小学、中学では「修身」という名称で道徳の授業が教科として行われた。
当初は外国の道徳書を翻訳したものが修身の教科書として使われていた。
翻訳教科書時代の修身の内容は、自由主義系統の内容のものも含まれていた。
福沢諭吉が明治5年に翻訳した、「童蒙教草」と題する本の一部を紹介する。
その序文に、自由の意味をはき違えている庶民の実態についても述べられている。
童蒙教草序
大凡(おおよ)そ天下の事物、一利あれば必ず亦(ま)た一害なきを得ず。蓋(けだ)し其弊(へい)は分限を知らざるの罪なり。方今(ほうこん)我邦(わがくに)に西洋の説漸(ようや)く行(おこな)はると雖(いえ)ども、其説の由(より)て起る源を尋(たずね)れば、大概皆外人一夕(いっせき)の茶話を聞(きき)たる者歟(かな)、或は新聞紙に等しき數巻(すうかん)の譯書(やくしょ)を讀(よみ)たる者に過ぎず。半解半知、其一を知(しり)て其二を知ざるときは、大(おおい)に物事の分限を誤り、未(いま)だ一利を得ずして先(ま)づ其害を見ることあらん。經濟を談じて分限を知ざれば利に走るの弊あり。窮理(きゅうり)を説(とい)て分限を知ざれば天を恐れざるの弊あり。清潔を貴(とうと)ぶとは衣食居住(きょじゅう)に奢侈(しゃし)を極(きわむ)る者の口實(こうじつ)なり。滋養を重んずるとは酒食に耽(ふけ)る者の遁亂(しゅんらん)なり。勇敢(ゆうかん)は亂暴(らんぼう)に陥り、簡易(かんい)は粗嫚(そまん)に流るゝ等、枚擧(まいきょ)に遑(いとま)あらず。就中(なかんづく)彼(か)の洋學者流(りゅう)が、英米諸國の史類を讀み、自主自由の趣旨を誤認(あやまりしたゝめ)て、これを放肆(ほうし)無賴(ぶらい)の口實(こうじつ)に用る等(とう)のことあらば、其世(せい)敎に害を爲すこと擧(あげ)て云う可からず。余輩(よはい)竊(ひそか)にこれを患(わずら)ること久し。依(より)て今こゝに英人チャンブル氏所著モラルカラッスブックと題せる書を翻譯して童蒙の讀本に供せり。願くば後進の少年、諸學入門の初(はじめ)に先づ此書を讀み、愼獨(しんどく)脩身(しゅうしん)、以(もっ)て分限を誤らず、次第に物に接し人に交るの道を明かにせば、彼(か)の經濟、窮理、史類、百般の學も、其實の裨盆(ひぼん)を爲して弊害を生じること莫(な)かる可し。
初編目録
第一章
(イ) 子供と蝦蟆(カヘル)との事 寓話(ぐうわ)
(ロ) ゼイムスとロベルトの事
(ハ) 慈悲なき子供と顕微鏡の事
(ニ) 牢内の罪人(つみびと)、鼠と遊ぶ事
第二章 親類に交る心得の事
(イ)鼠その親を負ふ(おう)事
(ロ)アナピアスとアムヒノムスの事
(ハ)歴山王母君(ははぎみ)に事(ず)る事
(ニ)葡萄牙(ポルトガル)の兄弟、死を爭う事
上記目録のように外国の道徳書を翻訳したものが修身の教科書として使われていた。
童蒙をしへ草 巻の一 福澤 諭吉 譯
第一章 動物を扱ふ心得の事(参考に紹介する)
世の中にかへる、でゝむし、はい、いもむしなどという蟲(むし)あり。罪もなきものなるに、心なき人は見付次第(みつけしだい)にこれを苦しめこれを殺すことあれども、以(もっ)ての外の事なり。假令(たと)ひ如何なる蟲(むし)にても、無益にこれを痛(いたが)るは宜(よろ)しからず。且(かつ)又小さき動物(イキモノ)をむごくするよりして、追々これに慣れ、我同類の人を扱ふにも慈悲の心を失ひ、遂には大悪(だいあく)無動の働を為すに至るべし。故に人若(も)し不図(ふと)したる出来心にて斯(かか)る蟲を殺さんとすることあらば、則(すなわ)ち我身に立返り、若し我身體より数倍大ひなる怪物(バケモノ)ありて我を苦しむること、今我(わが)この蟲を扱ふが如くならば、其苦痛如何ばかりならんと、身に引替て蟲のいたさを思ひ知るべし。
牛馬犬猫など飼は繰り返し、食物(たべもの)を十分に與(あた)へ、、然るべき居處(いどころ)に置き、其取扱をよくして、力に餘(あま)るほどの仕事を為さしむべからず。こは其飼主の役前(ぜん)なり。馬の既(まさ)に老たる歟(か)、或は働きて既(まさ)に疲れたる歟(か)、或は飼料(ひりょう)の少くして走り能(あた)はざる者へ、妄(みだ)りに鞭を加えて其進まざるを叱るは、主人の恥といふべし。
人の食物に用る畜類を殺すには差支なけれども、これを殺すに無益の苦痛を爲さしむべからず。畜類を引て市に出(いづ)る道すがらも、むごくこれを扱ふこと勿(なか)れ。殺すときは成丈(なるた)け手早くすべし。假令(たと)ひ牛屠(ほうむ)る人にても、心を用れば仁の道に近づくを得べし。
明治10年の西南戦争が終わった頃には、「文明開化」の流れが「自由民権運動」として全国的に広がりを見せるなど、自由平等意識の行き過ぎが政治問題となり、帝国主義体制は、華族制度や被差別部落の問題を抱えたまま、天皇・華族・士族(官僚)・平民という新たな身分制度に基づいた新国家建設へ向けて、国家的な取り締まりが厳しくなっていった。
修身における教育内容もそれに呼応して、孝よりも忠といった国家主義に適した思想として、儒教的教育内容が復活し、教化されていった。
「論語」に見られる庶民の日常倫理規範や忠孝といった徳目を中心とした教育内容となっていった。
明治13年に出された「改正教育令」によって修身は全教科の筆頭教科として位置付けられた。
江戸時代の身分制度が崩壊した後、四民平等、男女平等、自由民権運動といった民主化の流れは、当時の士族たちに道徳の低下現象として映っていた。
例えば、武士階級の人たちに対して、対等にものを言う「農工商人の言動」は、士人たちからは、「生意気だ」とする反感感情を生み、鹿鳴館における男女の舞踏会も、風紀を乱す行き過ぎたものとして映っていた。
民権運動に加わる若者たちの台頭もまた、道徳の低下として政治の問題として取り上げられていた。
明治22年に大日本帝国憲法が公布され、翌年の明治23年の閣議において時の文部大臣、榎本武揚から「人倫五常の道、孔子の教を本として徳育を施すがよい」とした「儒教教育」を求める発言があるなど、国家主義的復古思想の台頭へと流れていく。
教育勅語は、明治15年に明治天皇が、陸海軍の軍人に下賜(かし)した軍人の精神教育の基本方針である軍人勅諭を参考に起草された。
当時の世界情勢は、欧米列強諸国による帝国主義、覇権主義・植民地政策が台頭していた時代であり、そうした国際環境における危機感が、一層、国民精神の統一を必要とする気運を高めていった背景にあった。
国家主義的児童観は、教科書にも反映し明治十九年、森文相の時に教科書制度はそれまでの認可制から、検定制度に変わり国家統制が始まった。
明治二十三年に、「教育勅語」が発布された。
それ以後、国家主義的な教育政策は太平洋戦争での敗戦まで続いた。
唐澤富太郎は著書「児童教育史」の中で、国家主義における明治天皇像について、次のように述べている。
「ここで注目すべきことは、この国家主義は、政府の命令的な政策によってのみ成功し得たのではなく、国民の胸中には心のよりどころとして、極めて魅力的な明治天皇が大きな比重を占めていた。つまり日本のシンボルとしての明治天皇への敬愛の念が、国民をして国家主義に何の抵抗もなく走らしめた点が見逃せないのである。とにかく明治時代は、明治天皇を除いては思想も教育も考えられないと言えよう。」
ドイツ人ベルツは、明治天皇について次のように述べている。
「かれこそは疑いもなく、心からその国家と国民の繫栄を念じていた君主であった。そしてかれの生涯が、めずらしい幸運に恵まれれていたように、かれの治世は、その国家にとって、まれに見る幸運の時代であった。後世の日本人は、恐らくかれの姿に後光を描くことであろうが、とにかく、日本が近世の世界歴史に仲間入りしたこの新しい時代は、明治天皇の名前と結びつけられるているのである。」
(「明治天皇をしのぶ」ベルツの日記)
教育勅語発布当時の模様について、山川均氏は、次のように述べている。
「尋常科四年の天長節だったかと思う。教育勅語が下されたというので、特別の式がお
こなわれ、お菓子の包みをもらって帰った。このときから、講堂には、はじめて神ダ
ナみたいなものができて、「ゴセイエイ」(御聖影)というものが祭られた。祭日だ
とか進級式などには、神ダナの紫の幕がしぼられて、おズシのトビラが半分ひらかれ
たが、中は見えなかった。そして校長先生がおごそかに、妙なフシをつけて勅語を「ホ
ウドク」するようになった。意味は分からぬままに、ともかく「チンオモウ」から「ギ
ョメイギョジ」までいつのまにか暗記してしまった。(山川均「ある凡人の記録 山
川均自伝」)
教育勅語の内容(全文)
朕(チン)惟(オモ)フニ我(ワ)カ皇祖(クワウソ)皇宗(クワウソウ)國(クニ)ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠(クワウエン)ニ徳(トク)ヲ樹(タ)ツルコト深厚(シンコウ)ナリ我(ワ)カ臣民(シンミン)克(ヨ)ク忠(チユウ)ニ克(ヨ)ク孝(カウ)ニ億兆(オクテウ)心(ココロ)ヲ一(イツ)ニシテ世々(ヨヨ)厥(ソ)ノ美(ビ)ヲ濟(ナ)セルハ此(コ)レ我(ワ)カ國體(コクタイ)ノ精華(セイクワ)ニシテ教育(ケウイク)ノ淵源(エンゲン)亦(マタ)實(ジツ)ニ此(ココ)ニ存(シン)ス爾(ナンヂ)臣民(シンミン)父母(フボ)ニ孝(カウ)ニ兄弟(ケイテイ)ニ友(イウ)ニ夫婦(フウフ)相和(アヒワ)シ朋友(ホウイウ)相信(アヒシン)シ恭倹(キヨウケン)己(オノ)レヲ持(ヂ)シ博愛(ハクアイ)衆(シュウ)ニ及(オヨ)ホシ學(ガク)ヲ修(ヲサ)メ業(ゲフ)ヲ習(ナラ)ヒ以(モツ)テ知能(チノウ)ヲ啓発(ケイハツ)シ徳器(トクキ)ヲ成就(ジヤウジユ)シ進(ススン)テ公益(コウエキ)ヲ廣(ヒロ)メ世務(セイム)ヲ開(ヒラ)キ常(ツネ)ニ國憲(コクケン)ヲ重(オモン)シ國法(コクハウ)ニ遵(シタガ)ヒ一旦(イツタン)緩急(クワンキフ)アレハ義勇(ギユウ)公(コウ)ニ奉(ホウ)シ以(モツ)テ天壌(テンジヤウ)無窮(ムキユウ)ノ皇運(クワウウン)ヲ扶翼(フヨウ)スヘシ是(カク)ノ如(ゴト)キハ獨(ヒト)リ朕(チン)カ忠良(チユウリヤウ)ノ臣民(シンミン)タルノミナラス又(マタ)以(モツ)テ爾(ナンヂ)祖先(ソセン)ノ遺風(キフウ)ヲ顕彰(ケンシヤウ)スルニ足(タ)ラン
斯(コ)ノ道(ミチ)ハ實(ジツ)ニ我(ワ)カ皇祖(クワウソ)皇宗(クワウソウ)ノ遺訓(ヰクン)ニシテ子孫(シソン)臣民(シンミン)ノ俱(トモ)ニ遵守(ジュンシュ)スヘキ所(トコロ)之(コレ)ヲ古今(ココン)ニ通(ツウ)シテ謬(アヤマ)ラス之(コレ)ヲ中外(チユウガイ)ニ施(ホドコ)シテ悖(モト)ラス朕(チン)爾(ナンヂ)臣民(シンミン)ト俱(トモ)ニ拳々(ケンケン)服膺(フクヨウ)シテ咸(ミナ)其(ソノ)徳(トク)ヲ一(イツ)ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ギョメイギョジ)
現代語訳を参考に示す。
「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をお
はじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心
を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、も
とより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道
義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟、姉妹は互いに力を合わせて助け合い、
夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、
全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨
き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論の
こと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなり
ません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、
また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう
明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならない
ところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかり
でなく、外国へ行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共
に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人になるように、心から念願するものであり
ます。
明治二十三年十月三十日 天皇陛下の署名と印 」
~国民道徳協会訳文による~
教育勅語が下賜(かし)された後は、道徳教育は教育勅語の趣旨を徹底させ、天皇陛下に忠良な臣民を育成する国民教育をねらいとして行われた。
当時の道徳教育である修身の特徴は、明治24年に公布された小学校教則大綱第二条の「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣(しいしゅ)ニ基キ児童ノ良心ヲ敬培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」
明治33年に公布された小学校施行規則第二条「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キテ児童ノ徳性ヲ涵養シ道徳ノ実践ヲ指導スルヲ以テ要旨トス」
この二つの法律に述べられているように、修身は「徳性」を養い「実践」を指導することが目的とされ、教育勅語に基づくと明記され、下の12の徳目が示されていた。
孝行(親に孝養をつくしましょう)
友愛(兄弟姉妹は仲良くしましょう)
夫婦ノ和(夫婦はいつも仲むつまじくしましょう)
朋友ノ信(友だちはお互いに信じあって付き合いましょう)
謙遜(自分の言動をつつしみましょう)
博愛(広く全ての人に愛の手をさしのべましょう)
修学習業(勉学に励み職業を身につけましょう)
知能啓発(知識を養い才能をのばしましょう)
徳器成就(人格の向上につとめましょう)
公益世務(広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
遵法(法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
義勇(正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう)
勅語発布の後、政府は教育勅語の精神を、学校教育を通して国民に普及させていくことに努めた。
その一環として、どこの学校でも次の三つのことが行われた。
第一は、祝祭日の儀式における校長等による拝読と、それにつづく訓示。
第二に、毎日勅語に向かっての拝礼。
第三に、修身の授業などで、日本の国体がどれほど尊いものであるか、また勅語にも示されられている徳目の実行が、国民(臣民)にとってどれほど大事であるかについての訓育的な教育に終始した。
勅語は修身の教科書の巻頭にのせられており、日課の始めに拝読された。
明治37年から使用を始めた日本の国定教科書は、昭和16年、国民学校時代に至るまでに5期にわたって改訂された。(第1期;明治37年~第2期;明治43年~第3期;大正7年~第4期;昭和9年~第5期;昭和16年~)
巻1は、現在の小学1年、巻6は小学6年に相当する。
第3期の尋常小學修身書の目次の一部を紹介する。
巻一 モクロク
一 ヨク マナベ ヨク アソベ
二 ジコク ヲ マモレ
三 ナマケル ナ
四 トモダチ ハ タスケアヘ
五 ケンクワ ヲ スル ナ
六 ゲンキ ヨク アレ
七 タベモノ ニ キヲツケヨ
八 ギョウギ ヲ ヨク セヨ
九 シマツ ヲ ヨク セヨ
十 モノ ヲ ソマツ ニ アツカフナ
十一 オヤ ノ オン
十二 オヤ ヲ タイセツ ニ セヨ
十三 オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ
十四 キヤウダイ ナカヨク セヨ
十五 カテイ
十六 テンノウ ヘイカ
十七 チユウギ
十八 アヤマチ ヲ カクスナ
十九 ウソヲ イフナ
二十 ジブン ノ モノト ヒトノモノ
二十一 キンジヨ ノ ヒト
二十二 オモヒヤリ
二十三 イキモノ ヲ クルシメルナ
二十四 ヒトニ メイワク ヲ カケルナ
二十五 ヨイ コドモ
巻六
目録
第一課 皇大神宮
第二課 國運の發展
第三課 國運の發展(つゞき)
第四課 國交
第五課 忠君愛國
第六課 忠孝
第七課 祖先と家
第八課 沈勇
第九課 進取の氣象
第十課 工夫
第十二課 公益
第十三課 共同
第十四課 慈善
第十五課 清廉(せいれん)
第十六課 良心
第十七課 憲法(けんほふ)
第十八課 國民の務(其の一)
第十九課 國民の務(其のニ)
第二十課 國民の務(其の三)
第二十一課 男子の務と女子の務
第二十二課 勤勉
第二十三課 師弟
第二十四課 教育
第二十五課 教育に關する勅語
第二十六課 教育に關する勅語(つゞき)
第二十七課 教育に關する勅語(つゞき)
教育ニ關スル勅語
修身教科書の改訂内容を目次を中心に概観すると、修身教育が「教育勅語」が発布された以降、取り上げられている徳目が儒教における徳目へと、復古的な徳目が教科書に復活していったことが読みとれる。
国家主義的な教育政策として儒教における12の徳目(孝行・友愛・夫婦ノ和・朋友ノ信・謙遜・博愛・修学習業)が全面に押し出されていった。これらの徳目は、江戸時代の武家社会における君臣の関係を強固なものとし、身分制度を安定させる上で重要な規範であったものである。
明治時代が始まり、文明開化の波がおしよせた一時の間見られた、自由民権運動の萌芽と、四民平等の概念の広がりは、教育勅語の発布を境に収束していく。
その原因は、当時の世界情勢にある。西洋列強諸国の多くが帝国主義による国家体制の状態であった当時、列強国による覇権主義の波が世界中に広がっていたことを踏まえると、国内における庶民の自由民権運動、四民平等という自由主義の風潮が蔓延することは、天皇主権の帝国主義国家を目指していた明治政府の方針に合わず、容認できなかったことは理解できよう。
明治政府としては、江戸時代の国の体制であった封建体制国家から帝国主義体制国家へと変貌したが、身分体制においては、君臣(武士と庶民)の間における身分体制から、天皇(官僚)と臣民との間の身分体制へと変換しただけであって、身分体制としては、類似したものであった。
江戸時代の道徳秩序を支えてきた儒教が、復古的な教育思想として回帰されていったことが理解できよう。
江戸時代の君臣における、忠を根幹とした道徳規範を、新たに天皇(官僚)と臣民の間において再構築する方向に、明治政府は動いていった。
将軍に代わり、天皇への忠を根幹とした道徳規範と、大日本帝国という新たな身分社会秩序の安定に向けて、新たな日本の国の形である、「国体」の清華を開花させることを目指して、教育が推し進められていった。
その様子が、当時の修身教科書の目次を通しても理解できる。
修身教育における授業方法は、江戸時代の藩校における論語の素読のような形が主流であり、日本人の偉人の逸話を資料として構成し、徳目ごとに資料化していた。
子どもたちは、教材に含まれている徳目、道徳的価値を身に着けていったのである。
道徳授業の方法論は、読み物資料を朗読し暗記するというような、平板な道徳授業形態で道徳的価値を押し付ける形態であり、「徳目の注入(価値の押し付け)といった授業形態」であった。
この授業形態は、生徒の忍従力的要素を必要とする教育方法である。
当時の子どもの躾は現在の躾と比較すると、体罰的要素が強く上からの下へ徹底した躾を行っていた時代背景や、教師の権威が非常に高かった事を踏まえても、当時の小学生にとっては、退屈な授業であったことが想像できる。
【引用参考文献】
・唐澤富太郎著作集 第1巻 児童教育史-児童の生活と教育-(上) 唐澤富太郎著
ぎょうせい 平成4年初版発行
・インターネット「小さな資料室」より「学制」現代語訳引用・「明治神宮」より教育勅
語、12の徳目引用
・教育勅語 朝日選書154 1989年第9刷発行 山住正己著 朝日出版社発行
・道徳教育の歴史 修身科から「道徳」へ 勝部真長・渋川久子著 1988年第5刷発行 玉川大学出版部発行
・「堺利彦伝」現代日本文学全集39)
・山川均「ある凡人の記録 山川均自伝
・「明治天皇をしのぶ」ベルツの日記
・五か条の御誓文(もん):明治天皇が1868年に示した新政府の基本方針、現代語訳、広く会議を開いてすべての政治は世論に従い決定するべきこと。治めるものと人民が心をひとつにして盛んに国家統治の政策を行うべきこと。公家と武家が一体となり庶民にいたるまで志をとげ人々の心をあきさせないことが必要であること。古い悪習を破り国際法に基づくべきこと。知識を世界に求め、大いに天皇政治の基礎を盛んにすべきこと。
・「学制百年史」文部省 昭和47年
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